みなさんこんにちは三茶散歩です。
三茶散歩は2019年から本格始動し、この一年三軒茶屋の様々なお店を紹介し続けてきました。行ってみたかったお店、気が付けなかったお店、行くことがなかったかもしれないお店など、多くのお店に訪れることが出来ました。
さて紹介し続けていくうえで、 当時から三茶散歩では絶対にやらないと決めていたことがあります。それは「批判はしない」ことです。三茶散歩のビジョンは「自分の住む街を好きになると、人生は豊かになる」です。プラスの感情を高くして、好きな街をもっと好きにしていきたい。 だから「行かないほうがいいよ」という発信より「行ってみたい」と思わせることを発信したいと決めていました。
もちろん「行かないほうがいい店」を紹介し、失敗を未然に防ぐという提供価値もあるかもしれません。ですがそれでは三茶を盛り上げることにはならないですし、時間をかけて読んで頂くのに、手にした情報価値がプラスではなくマイナスにならないことでは、それは決して豊かさを加速してることにはならないと思っています。
ですが一方で「気にいったお店を紹介する」を続けてゆくと、一つの問題が出てきたのです。それは「いつも美味しい」としか言ってないという問題です。
どこへ行っても美味しい料理は食べられる時代、伝えたいのは美味しいというファクト?
例えば三軒茶屋にはアジア料理屋さんがたくさんあります。コンタイ、サイアム・タラート、イサーン・キッチン、プアン、ソウルフードバンコク(こちらは池尻大橋の名店)、クラーク ジャック パーラー(こちらはシンガポール料理)と日々お店を変えて食べに行けるほどあります。
ただ、この時代どこ行っても美味しいアジア料理は食べれらます。 逆に言えば、どこに食べに行っても正直差がないというのが本音ですし、美味しくないお店を探すことの方が難しそうです。
そんな一億総グルメ社会な時代に「ここ美味しいです、ぜひ行ってみてください!」と伝えても、情報価値の奥行きが生まれにくい。いつも美味しいとしか言わないテレビのグルメ番組と一緒で、美味しいことの情報価値だけでは発見を与えられないし 「どうせそんな大差ないだろう」という気持ちを突破できず、読む人の気持ちを高揚させにくいと感じるようになったのです。
嘘を言ってるわけじゃない、ホントに美味しい。なのに読み手はグルメサイトの1レビューと同じように捉えてしまう。 今「 どこが美味しいのか、何が美味しのか 」を伝えていては、このメディアで読みたいという価値は一向に生まれにくい。これは情報を発信する側にとってとても重要な問題なんじゃないかと思い始めました。では、どうすればいいのか?ここがとても難しかった。そしてそこで考えたのが「これからのメディアって何か?」でした。
「メディアはファクトを伝える場所」 これって本当?
例えば一般的に新聞記事は事実を伝える公共性の高いメディアです。個人の感情ではなく、誰が聞いても同じ解釈を持つことが出来るように伝え、ミスリードを起こさずファクトを伝えなければいけません。新聞が個人的価値観で情報を発信することを読み手はだれも求めていません。
ですが、ここに「突破できない」問題を生んでしまう原点があると思いました。もしメディアはファクトを伝える場所だとすると、これだけ発信媒体が急増した時代、 どのメディアで得る情報も同じになり、ファクト(事実)以上の情報価値は非常に生まれにくく、(能動と受容に違いはあれど)まるでリターゲティング広告のように何度も同じ情報に繰り返し接触する鬱陶しいモノになってしまうのです。
例えば今何か事件が起きると、友だち登録しているLINEアカウントから同じ内容の情報をポンポンポンとスマホの音を鳴らして伝えてきます。情報速度はこれ以上ない最速時代に達し、「ファクトを伝える」あらゆる情報は速度・内容・見解も全く同一となり、それが無数に届きます。元来のメディア価値は一瞬のうちにちょっと迷惑な状況に達してしまうのです(もちろん第一報を届けてくれることはありがたいことです)。
またお店の紹介情報も同じようにありがたさが弱まりつつあります。例えば三軒茶屋の美味しいラーメンを探そうと検索すると、だいたいどのメディアも結局同じお店を紹介しています。店舗はそこにあり続けるわけなのですから、紹介する側が増えるほどお店が被るのは当然です。美味しいお店の美味しい料理を美味しいと紹介し、個人的な価値観なく、だれもが誤解のないようにファクトを伝える。このメディアの古くからの概念は情報価値を高めず、同質化し、むしろ選ばれる価値を下げていると思えるのです。
これからのメディアは人格をもって人柄が見えるように語る
一方で日常生活を過ごす中で誰かの個人的な価値観や見解が他者のモノコトの選択にはとても影響を与えます。
例えばどれだけ総合点の高い映画でも、興味がない映画には一向にその高評価は刺さりません。ですが身近な友人の熱のこもった主観的な感想に出会うと同じ映画でも「そこまで言うなら行ってみるか」とたった1人の意見でもとたんに興味を持つ状態に達します。例えば私の場合「シンゴジラ」がそうでした。決め手は友人に「自分は二度観てもいいから観てないなら一緒に行こう」でした。まさに「そこまでいうなら」です。
また、おかげさまで三茶に行ってみたいと言って頂ける友人が周りに増え「三茶っぽくていいとこない?」と聞かれるようになりました。インスタDMでもこのようなコミュニケーションが起きることもありました。
そんな時私は、美味しさを超えてまた行きたいと思ったお店を紹介します。楽しく話かけてくれるヒトのいるお店の接客は美味しさを超えてまた触れたい温度があるし、人にも勧めたいものです。しかも実はこういう美味しい以外の要素を喜んでくれるヒトはとても多いのです。
実はこの2つの例に共通して「情報が他者に影響を与えてる要素」というのが「人柄」です。体温を感じるくらいの人間味とも言うべきでしょうか。シンゴジラを熱量持って勧めてくれた友人や、お店の良さがにじみ出る接客のようにひととなりが見えるくらいの人柄でコミュニケーションすると情報が強くなるということがわかります。ならばメディアから「人柄」を感じる様になれば、無意識的にこのメディアで情報を得てみたいと思われるのではないか?メディアも一人の人間の様に人格をもって人柄が見えるように語ったほうがいいのではないか?人柄がにじみ出る身近な友人のレコメンドの様に、耳を傾けてもらうことができるのではないか考えました。
「何を伝えるか」より「なぜ伝えたいか」
「何が美味しいか、どこが人気か、 何割の人が評価してるか」という事実を伝える役割はなくなる必要はありません。ですのでそこは新聞や別のメディアにお願いします。ですが三茶散歩(のようなニッチなオウンドメディア、ローカルメディア)が人柄を感じて耳を傾けてもらうようになるためには「何がおすすめか」より「なぜおすすめしたいのか」という要素がとても重要なのかなと感じています。
実は三茶散歩は振り返ると、味よりヒトの話をしてる記事を多く掲載してきました。駒沢の寧ママ、裏三茶のくし頌、すずらん通りの味とめ。また三角地帯の味好亭、天楽などはお店の雰囲気や料理に歴史がにじみ出ているお話をしています。さらに奥三茶のコマル、裏三茶のとこしえさんなどはお店からポリシーを感じる点が気になって取り上げています。
これらはすべて「なぜおすすめしたいか」に軸足を置いて語っており、ママやマスターとの会話から感じた印象や、通う理由、時にはなぜこの店を訪れることになったのかというストーリーを伝えています。その結果お店の方からは感謝を頂き、読んで頂いた方からは行ってみたいとおっしゃって頂くことが出来ました。さらには三茶散歩をメディアとしてではなく「メディアというよりヒトっぽいよね」と話して頂いたり「この記事は三茶散歩らしくない」という激励も頂くようになりました。
「何を伝えるか」より「なぜ伝えたいか」という要素がメディアの人格を作り、人柄として伝わり、ヒトを好きになるようにメディアを好きになっていただけるのです。こうなると三茶散歩から発信される情報は他と異なるコンテンツになり 「どうせそんな大差ないだろう」という気持ちを突破するようになれるのです。
もちろん人柄で伝えると価値観の違いが生まれます。旧来はここがメディアのタブーだったかもしれません。ですが価値観の違いは一つの問題提起となって、読んでくれる人の価値観との差分をつくるきっかけにもなる。その差分が感情の源泉となって「興味」や「確信」や「共感」になったり、もしくは「否定」や「異論」となり新しい会話が生まれることになります。
もしかしたら価値観や考え方の違いによって、三茶散歩を嫌いになるヒトを作るかもしれません。ですがそれでも私たちは私たちのビジョンと信念に基づいて、決して奇をてらう個性的な発信をするということではなくメディアを1人の人間として興味持っていただけるようにしていきたい。なぜ紹介しているのかを大事にしながら今後も三茶の情報を発信していきたいと思います。
結局これからのメディアの役割って人柄が感じられることが重要。メディアも一人の人間としてストーリーその個人的な尺度で価値感を語ることで、情報の価値を高めていくことが必要だと思います。
わかったから早くタイ料理の話してくれる?